「みなさんこんにちは。
今日で8月も終わりですね。
今年も残るところ4か月になってきました。
コロナウィルスの感染が広まっているので十分に気を付けていきましょう。
それと、まだまだ暑いのでこまめな水分補給をとって、熱中症予防に気を付けましょう。
さて今月最後のネタ紹介と行きたいと思います。
今日のネタはこちら!
『奈良公園の鹿の糞を掃除する虫
』についてのネタだよ。
※この記事は糞についてのネタなので読む際は気を付けてください。
じっくり読んでいってね。」
奈良市にある奈良公園とその周囲には鹿(シカ)が生息している。
この奈良の鹿は野生動物であり、国の天然記念物にも指定されている。
1000年以上前から神様の使いとして保護されてきた奈良の鹿は1300頭いると言われている。
これらの鹿はもちろん糞(ふん)をするが、1頭が1日にする糞の量は約1キロであり、1300頭いるので、1日で1トンを超える量の糞が街に溢れることになる。
そんな大量の糞をどうのようにして掃除しているのか。
実は奈良公園の鹿の糞は人が掃除しているわけではない。
その代わりに「糞虫」(ふんちゅう)と呼ばれる「オオセンチコガネ」という虫が処理してくれている。
辺り一面に広がった糞を掃除しているオオセンチコガネは、コガネムシの仲間で、金属光沢のある美しい体色が特徴で、
大きさは1.6〜2.2cm、日本全国に分布し、糞や死骸を食べる自然界の掃除屋さんである。
奈良公園のオオセンチコガネは濃い青色の個体が多く、一般に「ルリセンチコガネ」と呼ばれている。
そんなオオセンチコガネを含む糞虫は鹿が糞をするとそのニオイに誘われて糞に近付き、素早く糞の下に潜り込む。
そして、その中に巣を作り、3〜7日間かけてゆっくり糞を食べる。
細かく砕かれた食べかすの糞は土にかえり、公園の芝の肥料になる。
さらに、その糞の肥料で成長した芝を鹿が食べるという循環が出来ている。
1つの糞に何匹もの糞虫が集まることもあり、奈良公園やその周辺には数え切れないくらい多くの糞虫がいることになる。
また、奈良市には、糞虫を展示・研究する「ならまち糞虫館」が開設されている。
「どうだったかな?
鹿の糞を掃除してくれる虫がいるとは驚きだったね。
大量に発生しても鹿の食料になるという食物連鎖まで起きているというのはびっくりだったね。
鹿と虫でお互いに助け合って自然を保っているとはすごいね。
人間が「掃除する手間がなくなるのもすごく面白いね。
というところで今日のネタもここまで。
次回のネタもお楽しみに。
それではまた。
ばいばい。」
「みなさんこんにちは。
今週も始まりましたね。
今日も1日暑くなりそうなので水分補給をしっかりとって熱中症の予防をしましょう。
さて、今週最初のネタ紹介に入りたいと思います。
今日のネタはこちら!
『西日本は牛肉・東日本は豚肉の理由』についてのネタだよ。
じっくり読んでいってね。」
好きな肉といえば、主に西日本では牛肉、東日本では豚肉という傾向がある。
これは総務省による調査でも同じ結果である。
また、肉じゃがに使う肉といえば、好きな肉と同様に主に西日本では牛肉、東日本では豚肉という調査結果がある。
これらには日本の食肉文化の歴史が大きく関係している。
飛鳥時代から平安時代において、都は奈良や京都であり、公家が中心の社会だった。
その当時、西日本の人々が利用した動物が牛であり、牛は農耕や移動を手伝う動物として重宝された。
その後、鎌倉時代になると政治の中心は鎌倉に移り、公家から武士の社会へと変化した。
そして、東日本の人々が利用した動物が馬であり、馬は最も早い移動手段であり、戦でも活躍した。
また、馬は農業にも利用された。
ただし、これらの時代には仏教の影響で基本的に牛や馬を食べることは禁止され、肉を食べる文化は主に明治時代に入ってからである。
食肉文化は文明開化の象徴でもあり、港があった横浜などで流行した。
1862年(文久2年)には横浜に初の牛鍋屋「伊勢熊(いせくま)」が開店し、思想家・教育者の福沢諭吉(ふくざわ ゆきち、
1835〜1901年)が「牛肉は滋養に良い」と言ったこともあり、牛鍋が大流行した。
こうして日本中に牛肉を食べる文化が広まった。
一方、豚肉は1872年(明治5年)に政府主導のもと西洋式の養豚が開始されたが、牛肉ほど食べられてはいなかった。
豚肉を食べる文化が広まったきっかけは戦争であり、1894年(明治27年)に日清戦争、1904年(明治37年)に日露戦争が起こった。
これらの戦争の時、軍隊の食料に採用されたのが牛肉の缶詰であり、軍が牛肉を買い占めたことにより価格は高騰した。
特に東日本では牛肉が品薄となり、これを補ったのが豚肉だった。
豚は雑食性であり、残飯が多い都市部における飼育に適していた。
さらに、豚肉料理の定番であるカツレツや豚カツ、カツ丼などが誕生し、豚肉の需要はますます高まっていった。
また、豚は食肉として育つまでの期間が牛より短く、繁殖能力も高いという特徴がある。
1945年(昭和20年)の終戦前後には食糧難が起き、主に東日本では豚がこれを支えた。
このように西日本では昔から牛が利用されてきた歴史があり、東日本では戦争をきっかけとして豚を食べる文化が広まった。
そして、その結果として主に西日本では牛肉が、東日本では豚肉が食べられるようになった。
「どうだったかな?
牛肉と豚肉まさか東日本と西日本で使われていたのが違うとはびっくりしたね。
西日本は牛肉、東日本は豚肉と、昔からのしきたりとか当時の社会情勢とかで違いが出ていったのかもしれないね。
地域にもいろいろしきたりなものがあったとはいえ西日本にあまり豚はひろまらなかったのかな?
牛肉は高級でおいしいけれども豚肉は安くてもおいしいと思うんだよね。
皆さんは牛肉と豚肉どっちがすきかな?
というところで今日のネタはここまで。
次回のネタもお楽しみに。
それではまた。
ばいばい。」
「みなさんこんにちは。
今日も朝から暑いですね。
こまめな塩分・水分補給を心掛けましょう。
さて今週最後のネタ紹介に入りたいと思います。
今回のネタはこちら!
『お弁当にタコのウインナーが入る理由』についてのネタだよ。
じっくり読んでいってね。」
お弁当にはタコの形をしたウインナーを入れることが多いが、これは母親の子どもへの想いから生まれたものである。
「タコの形をしたウインナー」を日本で最初に考案したのは、料理研究家・尚道子(しょう みちこ、1920〜2002年)だとされる。
道子は、子どもの頃に食が細かった次男の尚承(しょう つぐる)のためにタコのウインナーを作った。
1953年(昭和28年)生まれの承は幼稚園に通うようになった頃、食べるのが嫌いでやせ細っていた。
母の道子はそんな承のお弁当を作る時に頭を悩ませていた。
承の唯一のお気に入りはタマゴとキュウリのサンドイッチだった。
そのサンドイッチのお弁当のおかずにウインナーを入れた。
当時のウインナーは赤色のものが主流で、皮が硬く、ツルツルして箸でもつかみにくかった。
道子はそんなウインナーに切れ目を入れて、食べやすくした。
その結果として、切れ目が入った赤色のウインナーはタコの形になった。
このようにしてタコのウインナーが誕生したのは承が5歳の時、1959年(昭和34年)のことである。
そして、現在ではタコのウインナーはすっかりお弁当の定番のおかずとなっている。
タコの形をしたウインナーは「タコさんウインナー」と呼ばれることが多いが、「タコさんウインナー」はプリマハム株式会社が有する登録商標である。
「どうだったかな?
今では多くの子供の弁当には必ずと言ってもいいほど入っている多胡さんウィンナー。
見た目も可愛くいつから生まれたのかと思っていたら戦後に生まれたもので、母親が発明したものが全国に広まっていったんだね。
作るのにもそんなに手間がかからなく見た目も可愛いというのはいいものだね。
それに多胡さんウィンナーが表象登録されていたとは驚きだったね。
ほかにも母親のちょっとした工夫から生まれたものがないか調べてみようかな。
というところで今日のネタはここまで。
次回のネタもお楽しみに。
それではばいばい。」
「みなさんこんにちは。
今日も熱中症アラートが出ているのでこまめな水分補給を心掛けましょう。
さて、今日のネタ紹介に入りたいと思います。
今回のネタはこちら!
『「スポーツ」の意味・由来』についてのネタだよ。
じっくり読んでいってね。」
スポーツ(sports)は、一定のルールに則って勝敗を競ったり、楽しみを求めたりする身体活動などの総称である。
陸上競技・水上競技・球技・格闘技などの競技スポーツの他、レクリエーションとして行われるものも含む。
球技には野球・サッカー・テニス・卓球・バスケットボール・バレーボール・バドミントン・ラグビー・ハンドボール・アイスホッケー・水球などがある。
英語の「sport」という言葉は15世紀の初め頃にイギリスで生まれたとされる。
元はフランス語の「desport(デスポール)」という言葉で「気晴らし」や「楽しみ」という意味である。
この言葉は更にラテン語の「deportare(デポルターレ)」にさかのぼり、「物を違う場所へ運ぶ」という意味である。
「de」は「〜から離れる」、「portare」は「運ぶ」を意味する。
そして、「気分を違う方向へもっていく」という意味に派生して「気晴らし」を意味するようになった。
上記の内容をまとめると以下のような変化で「sport」という言葉が生まれた。
ラテン語「deportare」物を違う場所へ運ぶ
↓
フランス語「desport」気晴らし・楽しみ
↓
英語「sport」スポーツ・運動
日本では大正時代の終わり頃からスポーツという言葉は一般化されたが、当時は野球やテニスなど欧米から入ってきたものだけを指していた。
スポーツという表現で柔道や空手などの武道も含めるようになったのは戦後のことである。
また、エンジンのついた乗り物で競技・競走を行うことも身体活動が重要な要素を占めるため、「モータースポーツ(motorsports)」とも呼ぶ。
その他にも、コンピュータゲームをスポーツ競技として捉え、「eスポーツ(e-Sports)」と呼ぶことがある。
「どうだったかな?
いまでは当たり前のように使われている言葉だけど深く調べたことがなかったからちょっとおもしろかったんじゃないかな?
昔と比べて種類もたくさん増えて、いろいろな協議を楽しめるようになった。
それに、4年に一度平和の祭典としてオリンピックというものがいろいろな国で少しずつ広まってきている。
オリンピックの歴史はかなり古い。
世界で人種関係なくみんなでスポーツを楽しめるようにどんどんなっていってほしいね。
というところで今日のネタはここまで。
次回のネタもお楽しみに。
それではまた。」
ばいばい。」
「みなさんこんにちは。
今日も暑いですね。
こんなに暑いと外に出たくなくなりますね。
でも暑いときは涼しい部屋でアイスを食べるに限りますね。
というところで今日のネタはこちら!
『「ガリガリ君」誕生の物語』についてのネタだよ。
じっくり読んでいってね。」
「ガリガリ君」は、埼玉県深谷市に本社を置く赤城乳業株式会社が製造・販売する氷菓で、年間4億本もの売上がある大ヒット商品である。
1981年(昭和56年)に販売が開始されたガリガリ君は、「片手で食べられるかき氷」をコンセプトとしていた。
当時は木のスプーンで食べるカップアイスが主流で、子どもが外で遊びながら片手で食べられるようにとガリガリ君が開発された。
ガリガリ君のパッケージは発売された当初、昔のガキ大将をイメージしたデザインだった。
しかし、その歯茎が見えるガキ大将のパッケージは特に女性に不評で、現在のような爽やかな少年のデザインになった。
このデザインの変更を行った翌年の2000年(平成12年)には販売本数が1400万本も増加した。
これにより目標としていた年間1億本の販売を達成した。
また、発売当初と現在ではかき氷も変わっている。
発売当時は中のかき氷をそのまま固めるだけだったが、それだとスティックからアイスがすぐに落ちてしまった。
開発チームは頭を悩ませた結果、現在のような外はシャリシャリのアイスキャンディーで、中はガリガリとしたかき氷になった。
この2層にするアイデアは開発チームが「貝」を見てひらめたものである。
貝は柔らかい身を硬い貝殻が守っているところから、ガリガリ君も2層にしてみることになった。
こうして、かき氷をアイスキャンディーがコーティングするガリガリ君が誕生した。
その結果として、ガリガリ君は片手で気軽に食べられるかき氷となり、大人気の商品になった。
そして、ガリガリ君は現在では夏の定番アイスの一つとなっている。
「どうだったかな?
夏になると一度は食べたくなるガリガリ君。
値段が手ごろで、量もちょうどいいので今日みたいに暑い日は食べたくなるよね。
何より片手で食べられるのが一番いいね。
世の中にはいろいろなアイスや、下記ごーりなどあるけど食べ過ぎには注意しましょう。
というところで今日のネタはここまで。
次回のネタもお楽しみに。
それではまた。
ばいばい。」
「みなさんこんにちは。
今日は朝からにわか雨が降っていますね。
ムシムシしていてとても暑いです。
水分補給を心掛けましょう。
さて、今日もネタ紹介と行きたいと思います。
今回のネタはこちら!
『「皇居ラン」が流行ったきっかけ』についてのネタだよ。
じっくり読んでいってね。」
「皇居ランニング」は「皇居ラン」とも呼ばれ、皇居の周り約5kmのコースをランニングすることである。
東京のどのエリアからもアクセスが良く、オフィス街からも近いことから、「皇居ラン」はランナーに人気があり、多い日には1万人を超える人が走っている。
そんな「皇居ラン」が流行ったきっかけは「銀座のホステス」だった。
元々のきっかけは1964年(昭和39年)の東京オリンピックで、マラソン競技において円谷幸吉(つぶらや こうきち、1940〜1968年)選手が力走し、見事に銅メダルを獲得した。
これによりランニングのブームが起こった。
そのブームにより走り始めたのが銀座のホステスの人たちだった。
皇居と銀座は場所が近く、銀座には多くのホステスが働いている。
そんなホステスたちが参加したのが「皇居一周マラソン」だった。
大会の主催者は銀座のクラブやバーの経営者で、スタート時刻は未明という珍しい大会だった。
約40人ものホステスが参加したこの大会は珍しかったこともあり、大々的にニュースで扱われた。
これにより皇居の周りを走れることが一般の多くの人に伝わった。
そして、皇居の周りは信号もなく、とても走りやすいコースだ、ということで「皇居ラン」はブームとなった。
今では朝から夜まで多くのランナーが集まる「皇居ラン」は、「銀座のホステス」がきっかけで広まったものだった。
ちなみに、上記の円谷選手は現在の福島県須賀川市の出身で、円谷選手の偉業を称えるとともに、
市民の体力づくり、健康な都市づくりを目的として、1983年(昭和58年)から同市において、「円谷幸吉メモリアルマラソン大会」が毎年開催されている。
「どうだったかな?
東京オリンピックのマラソン協議で生まれた銅メダリストの影響でランニングブームが生まれたというのはちょっと面白いね。
今年行われた東京オリンピックのメダルゲットを受けて新たにブームになる種目が生まれるのかちょっと楽しみですね。
というところで今日のネタはここまで。
次回のネタもお楽しみに。
それではまた。
ばいばい。」
「みなさんこんにちは。
今日は蒸し暑いですね。
今日ぐらいからパラリンピックが開幕するみたいですよ。
いろいろ協議を楽しんでみたいですね。
というところで今日のネタ紹介と行きたいと思います。
今回のネタはこちら!
『海の水をキレイにするアサリ』についてのネタだよ。
じっくり読んでいってね。」
味噌汁や酒蒸し、しぐれ煮、クラムチャウダーの具などに用いられるアサリは、海の水をキレイにする働きがある。
アサリには海水を体内に入れる時に使う入水管と、出す時に使う出水管の二つの管がある。
これらは上の画像のように貝から少し出ているのをよく見かける。
海水を吸ったり出したりするのは、酸素や餌を体内に取り入れるためである。
海水を入水管で取り込むと体内にある鰓(えら)に運ばれる。
実はアサリも魚と同じように鰓(えら)で呼吸を行う生き物であり、体の左右に二対の鰓(えら)を持つ。
取り入れた海水に含まれる浮遊生物のプランクトンやデトリタスと呼ばれる有機物の微粒子を鰓でこし取って食べる。
また、鰓(えら)から酸素を体内に取り入れる。
その後、不要になった海水と糞(ふん)を出水管から排出する。
これらのアサリの働きは海水をキレイにする効果があり、1時間に1リットルの海水をキレイにできる。
ちなみに、同じ二枚貝の仲間のカキは浄水能力がアサリの10倍あるとされ、そのカキを利用して東京湾の水をキレイにする取り組みも実施されている。
「どうだったかな?
まさかアサリにそんなことができるなんて知らなかったなー
いろいろな料理で使われていて食べるととてもおいしいものとしか認識していなかったな。
生きているだけで海水をきれいにできるなんてすごいね。
人間は生きているといろいろなごみや、有害なものを生み出してしまうのにアサリは生きているだけで海水をきれいにしてしまう。
とても素晴らしい生物だね。
みんなもあまりごみを増やさないように気を付けていこうね。
というところで今日のネタはここまで。
次回のネタもお楽しみに。
それではまた。
ばいばい。」
「みなさんこんにちは。
今週も1週間始まりましたね。
久々に太陽が顔を出して今日は熱中症アラートも出ているのでこまめな水分補給をとるようにしましょう。
さて、今週最初のネタ紹介に入りたいと思います。
今日のネタはこちら!
『自転車の盗難を防止するサドル』についてのネタだよ。
じっくり読んでいってね。」
サイクリストの頭を悩ませるのが自転車の盗難で、北米での年間盗難数は200万台以上にもなり、社会問題にもなっている。
最近では自転車の高級化もあり、ホイールやサドルなどパーツだけの盗難も多く発生している。
そんな中で、自転車やサドルの盗難を防止するアイデア商品が「Seatylock(シーティーロック)」である。
この商品はアメリカの会社が開発したもので、サドル自体を鍵にすることで自転車とサドルの両方を盗難から守る。
乗る時は普通にサドルとして使用でき、駐輪する時にはサドルを外して鍵として使用できる。
鍵としての性能も高く、非常に丈夫で、巨大なニッパーやハンマーにも負けない強靭さが売りである。
サドルだけでなく、自転車自体の盗難も防ぐアイデア商品であり、その機能から話題にもなり、世界的に人気がある。
「どうだったかな?
今日は自転車ネタを取り上げてみたよ。
ちょっと遠くに行くのに便利な自転車。
でもカギをかけ忘れたりかけてあっても盗まれてしまうことが多い自転車
その盗難防止に役立つシステムが生まれているのはいいことだね。
みんなも自転車を使う際は盗まれないように気を付けようね。
というところで今日のネタはここまで。
次回のネタもお楽しみに。
それではまた。
ばいばい。」
「みなさんこんにちは。
久々に太陽が顔を出しましたね。
昨日までは大雨で警報がたくさん出ていて大変でした。
とりあえず天気が回復しましたがあちこち地盤が緩んでいるのでがけ崩れや、地滑りに気を付けましょう。
さて、今週最後のネタ紹介をしたいと思います。
今日のネタはこちら!
『透明な氷「天然氷」と「純氷」』
じっくり読んでいってね。」
「天然氷(てんねんごおり)」とは、湖や池などで採取または製造される氷で、空気などの不純物を含んでおらず、透明度が高いのが特徴である。
一般的な家庭用の製氷機で作った場合には、マイナス18℃以下の低い温度で急速に凍り、空気やミネラルなどの成分が一緒に凍るため、白く濁ってしまうことが多い。
天然氷は冬の自然の寒さで作られ、夏まで保管される。
天然氷が作られ始めるのは気温が氷点下を下回る11月中頃からで、氷池(ひいけ)と呼ばれる人工の池に山の水を引き込む。
この水を凍らせて氷を作るが、中にゴミが入ったり、凍り方にムラがあった場合には、氷を割って全ての水を流して一から作り直す。
そして、表面に積もる雪やゴミなどをこまめに取り除きながら、2〜3週間じっくりと凍るのを待つ。
このゆっくり凍るのが重要なポイントであり、冬の気温マイナス5℃前後で時間をかけて氷ができる間に不純物が押し出され、透明度の高い氷となる。
凍って厚みのある氷になると、巨大なカッターで切り出して、その氷を手作りの竹のレールを利用して、氷室(ひむろ)と呼ばれる貯蔵庫へ運ぶ。
そして、氷を溶けにくくし、抗菌作用もあるおがくず(木くず)の中で夏まで保管される。
このような天然氷の作り方は奈良時代から続く伝統である。
この天然氷を使って美味しいかき氷も作られるが、天然氷は製造量が少なく値段も高い。
そこで、かき氷専門店などでは天然氷に代わって「純氷(じゅんぴょう)」と呼ばれる氷が使用される。
純氷も天然氷と同様に不純物の入っていない透明な氷で、製氷会社において人工的に作られる。
作る時のポイントは天然氷と同じくゆっくり凍らせることである。
作る時にできる中央の白く濁った部分は、切って取り除くため透明な氷となる。
値段は天然氷よりも純氷の方が安く作ることができる。
純氷は多くのかき氷専門店で使われている他、コンビニでよく見かけるカップ氷やかち割り氷にも使われている。
ちなみに「氷」や「かき氷」に関連する記念日として、6月1日は「氷の日」、7月25日は「かき氷の日」となっている。
「どうだったかな?
夏になると食べたくなる人が多くなるこーりについてのネタを持ってきてみたよ。
天然こーりと準こーりの違いってみんな気にしたことあったかな?
見た目はほぼ同じというか作り方も少し似ているから教えてもらわないと違いは判らないかもしれないね。
それにしてもこーりの作り方が古くからあるというのは驚きだったね。
というところで今日のネタはここまで。
みんなは下記ごーりの食べ過ぎには気を付けてね。
それではまた。
ばいばい。」
「皆さんこんにちは。
僕の職場周辺は、今朝からあいにくの大雨でした。
いつになったら天気が回復するんだろう…
地盤が緩んでるから、災害に気を付けて過ごしていきましょう。
さてさて、今日のネタ紹介に移っていきましょうか。
今回のネタはこちら!
『バスケのゴールにバックボードがある理由』
じっくり読んでいってね。」
バスケットボールは、リング状のゴールにボールを上方から通すことで得点が入る。
そのゴールには「バックボード」が付けられている。
現在では、ボールをリングに入れる時にバックボードに当てて、ボールの向きを変えてリングに入れるなどの使われ方がされている。
そのバックボードは、もともと観客が邪魔するのを防ぐ目的で付けられたものだった。
バスケットボールが誕生したのは1891年(明治24年)のことで、アメリカ・マサチューセッツ州で考案された。
その当時、ボールはサッカーボールで、ゴールは桃を入れる籠(かご)だった。
その桃の籠を体育館のバルコニーに取り付けてゴールとした。
そのため、当時のゴールには今のようなバックボードはなかった。
その後、バスケットボールは人気を博し、多くの人がプレイするようになるが、観客が体育館上の手すりや欄干(らんかん)から足や手を伸ばして、敵チームがシュートしたボールを妨害することが頻発した。
その対策として、ゴールの後ろ側に金網や木の板などの「バックボード」が付けられるようになった。
木の板では観客から見えないということで、後にプラスチック板が用いられるようになった。
また、バックボードの位置について、当初はエンドライン上にあったが、ゴールがコートの内側に61cm移動することとなった際に、バックボードもゴールと一体となってエンドラインより内側に配置されるようになった。
このような歴史を持つバックボードは思わぬ副産物を生み出した。
それはバックボードを使った華麗なスーパーシュートである。
観客による妨害を防ぐ目的で付けられたバックボードは、結果として観客が熱狂する技を生み、バスケットボールを更なる人気スポーツへと導いた。
ちなみに、バスケットボールの初めての試合が行われた1891年12月21日に由来して、12月21日は「バスケットボールの日」という記念日になっている。
「どうだったかな?
昔はバスケのプレイ妨害が頻発していたなんて、今では信じられない話だね。
妨害対策のためにバックボードを付けたつもりが、それを利用したスーパーシュートを生み出したのは一石二鳥だね。
というわけで、今日のネタはこれで終わりだよ。
次回のネタもお楽しみに。
それではまた。
ばいばい。」
「みなさんこんにちは。
昨日までの大雨で地盤が緩んでいるので外出の際は十分に気を付けましょう。
さて今日のネタ紹介に入りたいと思います。
今回のネタはこちら!
『全く鳥が寄り付かない銅像の謎』についてのネタだよ。
じっくり読んでいってね。」
一般的に屋外にある銅像には鳥が止まるイメージがあるが、金沢の兼六園(けんろくえん)には鳥が寄り付かない不思議な銅像がある。
石川県金沢市にある日本庭園「兼六園」には、1877年(明治10年)に起きた西南戦争における石川県出身の戦没者約400名の慰霊のために建設された
「明治紀念之標(めいじきねんのひょう)」という記念碑がある。
中央には身長5.5mの日本武尊(やまとたけるのみこと)像があり、これは日本で最初の屋外人物の銅像とされている。
この日本武尊像には「鳥が寄り付かない」という逸話があり、実際にハトなどの鳥は全く近付かない。
これには科学的な理由が存在し、金沢大学教授の廣瀬幸雄(ひろせ ゆきお)の「ハトを寄せ付けない銅像の科学的研究」の結果、銅像には多くのヒ素が含まれていることが判明した。
ヒ素とは、毒性が非常に強く、摂取すると死に至る場合もある危険な物質である。
銅像が建立されたのは1880年(明治13年)のことであり、当時は加工技術がまだ発達していなかった。
そこで、ヒ素などを混ぜ合わせ銅を溶けやすくして加工した。
そのため、この像は一般的な銅像に比べて高い濃度のヒ素を含んでいる。
このヒ素が銅と反応して電磁波が発生し、偶然にも鳥が寄り付かず、鳥のフンの被害も受けない銅像となった。
ちなみに、上記のような研究を行った廣瀬教授は「鳥を寄せ付けない合金」も開発しており、2003年(平成15年)にはこの銅像の研究によりイグノーベル賞の化学賞を受賞した。
「どうだったかな?
まさか銅像を作るのに毒になるものが使われていたとは
今では違う方法が開発されているけれども昔は毒になる物質が含まれている方法を使うしかなかったんだね。
いろいろな方法が開発されているみたいだから安全な銅像作成も夢じゃないかもね。
というところで今日のネタはここまで。
次回のネタもお楽しみに。
それではまた。
ばいばい。」
「皆さんこんにちは。
非常に激しい雨が続いていますね。
こんな状況は、今週末近くにかけて続くみたいです。
地盤が緩んでいるところがあるかもしれないから、土砂災害には厳重警戒しましょう。
さて、今日のネタ紹介に入っていきましょうか。
今回のネタはこちら!
『太ると知りながらご飯を食べ過ぎる理由』
じっくり読んでいってね。」
人間はご飯を食べ過ぎると太ってしまう。
しかし、太ると分かっていても食べるのは止められないものである。
ご飯の米(精白米)はその成分の約70〜80%がデンプンである。
炊いてある温かいご飯のデンプンは、口の中で唾液に含まれる消化酵素の働きで、甘みのある「糖」に分解される。
温かいご飯が甘く感じるのは、この糖によるもので、糖は人間の「エネルギーの源」である。
このエネルギー源の糖をたくさん摂取できるように、人の脳は甘みに対して最も快感を感じるようになったと考えられている。
ご飯を食べ過ぎると太ると知りながらも食べてしまうのは、ご飯が「甘み」を感じる食べ物のためである。
舌で感じた甘みの刺激により、脳では「β-エンドルフィン」(beta-endorphin)という神経伝達物質が出る。
これが幸福感や陶酔感を引き起こし、「幸せ」を感じさせる。
しかし、β-エンドルフィンには一度好きになったものを病みつきにさせる作用がある。
さらに、β-エンドルフィンが出ると、新たに神経伝達物質の「ドーパミン」(dopamine)も分泌される。
このドーパミンは意欲を起こすという特徴があり、食欲を増進させてしまう。
人間は甘みに病みつきになり、それを食べ過ぎるような仕組みを持っている。
ご飯をつい食べ過ぎてしまうという行動の原点は、人類が甘いものを知ってしまったことである。
そして、ご飯が甘いのは、人が米を炊く技術を持ったことにさかのぼり、これは人類が火を扱えるようになったことがその始まりとも言える。
「どうだったかな?
ついつい食べ過ぎるって、とても怖いことだよね。
でんぷんが糖に分解されて甘みを感じるから、それで人間の体は炭水化物を欲しがるんだね。
というわけで、今日のネタはこれで終わりだよ。
また次回のネタもお楽しみに。
それではばいばい。」
「みなさんこんにちは。
今週も1週間始まりましたね。
先週後半から雨が各地で降っていてあちこちで警報がたくさん出ています。
今後の気象庁の情報に気を配っておきましょう。
さて今秋最初のネタ紹介と行きましょうか。
今日のネタはこちら!
『ウナギやアナゴを生で食べない理由』についてのネタだよ。
じっくり読んでいってね。」
一般的にウナギ(鰻)やアナゴ(穴子)は生の刺身では食べず、蒲焼きなど熱を加えた状態のものを食べる。
蒲焼きは、ウナギやアナゴ、ハモ(鱧)など身の長い魚を開いて中骨を取り除き、串を打った上で、素焼きしてから濃厚なタレをつけて焼く魚料理である。
江戸料理の一つであり、江戸の伝統的な郷土料理でもある。
ウナギやアナゴ、ハモはウナギ目に分類される魚で、これらの魚は血液に「イクシオトキシン(ichthyotoxin)」という名前の毒が含まれる。
なお、インターネット上では「イクチオトキシン」や「イクチオヘモトキシン」という表記も見られる。
この毒を人間が大量に口にしてしまうと腹痛や下痢、吐き気、呼吸困難など、目に入ると結膜炎の症状を起こす可能性がある。
すぐに命を落とすほどの猛毒ではないが、この毒を含むため、ウナギ目に分類されるウナギやアナゴなどの魚は生では食べない。
ただし、この毒はタンパク質であり、熱を加えると毒性が消える。
具体的には60℃、5分の加熱で毒性を失う。
つまり、普通に焼いたり蒸したりする調理を行うことで食中毒を起こす心配はなくなり、安心して美味しく食べられる。
そんな中で全国でも珍しいウナギやアナゴの刺身を出す店も存在する。
これは完全な血抜きや血の出ない特殊なさばき方を開発したもので、独特のうま味や甘味と共にフグのようなコリコリとした食感を楽しむことができる。
「どうだったかな?
ウナギやアナゴを生で食べないのはそもそも血液に毒があり食べられないのが理由だったんだね。
ちょっとなぞではあったけれどもこの記事を読んだら納得だね。
そして今では生でも食べられるように開発されているというのもわかったからいつか食べてみたいなって思ったね。
というところで今日のネタはここまで。
次回のネタもお楽しみに。
それではまた。
ばいばい。」
「みなさんこんにちは
今日もあいにくの雨ですね。
お昼から大雨になるみたいなので外出の際は十分に気を付けましょう。
さて、今日のネタ紹介と行きたいと思います。
今回のネタはこちら!
『人生ゲームの自動車ゴマの穴の秘密』についてのネタだよ。
じっくり読んでいってね。」
「人生ゲーム」は、日本では1968年(昭和43年)9月にタカラトミーから発売されたボードゲームで、今なお人気の商品である。
そのゲームの中では、結婚や出産のイベントによって自動車型のコマに水色や桃色の人型のピンを挿していく。
その自動車のコマには6人分の人物ピンを挿すことが出来るが、実際には8つの穴が開いている。
人物ピンを挿す6つの穴は貫通しておらず、中央の2つの穴は貫通している。
実はこの中央の2つの穴にはピンを挿してはいけない。
この貫通した2つの穴は、子どもが万が一飲み込んだ際に気道を確保するための穴である。
穴を貫通させることで誤飲時の窒息を防止する役割がある。
商品の取扱説明書にも「自動車ゴマ中央の2つの穴は、人物ピンでふさがないでください」と記載されている。
「どうだったかな?
まさかそんな工夫がされていたとは思わなかったね。
この事実を知っていて遊んでいる人はどのくらいいるのかな?
小さな子供がいて遊ぶ際は買ってに飲み込まないように注意しておくことと説明書に書かれていることは必ず守るようにしましょう。
というところで今日のネタはここまで。
明日からお盆休みに入ります。
コロナ化でなかなか大変だとは思いますがご先祖様をしっかりお迎えしてあげましょう。
ということで今週はここまで。
それではまた。
ばいばい。」
「みなさんこんにちは。
今日は久々の雨ですね。
最近ずっと暑かったので少しは涼しくすごせるのではないでしょうか?
さて今日のネタ紹介と行きましょうか。
今回のネタはこちら!
『うどん・ひやむぎ・そうめんの違い』についてのネタだよ。
じっくり読んでいってね。」
うどん・ひやむぎ・そうめんは、共通して小麦粉を原料としており、これに塩と水を混ぜてよく練って作られる。
これらの違いは主に麺の太さである。
日本農林規格(JAS規格)の「乾めん類品質表示基準」では、機械で作られた乾麺の場合、そうめん(素麺)の麺の太さは直径1.3mm未満とされている。
これより太い直径1.3mm以上1.7mm未満はひやむぎ(冷麦)、
1.7mm以上はうどん(饂飩)に分類される。
このように一番太い麺はうどん、一番細い麺はそうめん、その中間がひやむぎとなる。
麺を引き延ばす行為を全て手作業により行うなどの条件を満たしたものは、太さに合わせて、それぞれ手延べうどん・手延べひやむぎ・手延べそうめんと呼ばれる。
近年では機械化が進んでおり、そうめんも機械で作る場合が多く、これは機械そうめんに分類される。
手延べ麺の場合は、太さの直径1.7mm未満まで引き延ばした麺は、ひやむぎ・そうめんのどちらでも表示できる。
この場合も直径1.7mm以上はうどんとなる。
また、その他の違いについて、店において、うどんは生地を専用の麺切り包丁で切って麺を作る場合が多いが、そうめんは生地を延ばして細くして麺を作るという違いもある。
そうめんを細く延ばす時、1本で長さが約250mにもなる場合があり、これはそうめん4束分に相当する。
「どうだったかな?
こんなにもしっかりとした規定があるとは思わなかったな。
僕はソーメンよりうどんのほうが好きかな。
でも夏に食べるソーメンはおいしいよね。
というところで今日のネタはここまで。
次回のネタもお他の足身に。
それではまた。
ばいばい。」
「みなさんこんにちは。
今週も1週間始まりましたね。
先週オリンピックも終わってしまい、少し寂しくも感じます。
もう少ししたらパラリンピックもはじまるみたいなのでそっちも楽しみにしておきたいところですね。
さて、今週最初のネタ紹介と行きましょうか。
今日のネタはこちら!
『「ジャージ」の名前の由来』についてのネタだよ。
じっくり読んでいってね。」
「ジャージ」とは、日本では学校の体育で用いる体操着やトレーニングウェアのことを指すが、本来は「ジャージー(jersey)」である。
「ジャージ」という名前は「ジャージー編み」が語源とされ、乳牛として知られる「ジャージー牛」と同じイギリス王室属領の「ジャージー島」生まれの編み物生地に由来する。
「ジャージ」という言葉は国語辞典にはなく、「柔らかく伸縮性のある厚手のメリヤス地の布」という意味で「ジャージー」が掲載されている。
「メリヤス編み」の編み方は英語で「jersey stitch(ジャージーステッチ)」と言う。
日本語では他に「平(ひら)編み」や「天竺(てんじく)編み」とも呼ばれる。
このジャージーステッチで作られた生地や製品のことを「ジャージー」と呼ぶ。
この編み方はイギリス海峡に浮かぶジャージー島が発祥とされ、かつて漁師が牛の毛で防寒用のセーターを作っていた。
その時の編み方がジャージーステッチであり、その後ヨーロッパに広まり、今では世界中で使われるようになった。
ジャージーステッチは伸縮性や耐久性に優れており、この編み方でトレーニングウェアが作られた。
そして、主にアメリカでその衣服が「ジャージー」と呼ばれるようになり、日本へ伝わり、省略されて「ジャージ」になったと言われる。
「どうだったかな?
運動するときや、家でゆっくりするときに切るジャージ。
とても優れた福田とは思っていたけれどもまさかこんな背景があるとは思わなかったね。
今ではいろいろな機能が付いたジャージがあるけれどもこの服にはほんとお世話になりっぱなしです。
開発してくれた人たちには感謝ですね。
というところで今日のネタはここまで。
次回のネタもお楽しみに。
ばいばい。」
「みなさんこんにちは。
台風が近づいている関係で天気が不安定ですね。
でも曇っているおかげですこし涼しく感じます。
コロナ感染者がまた増えているので不必要な外出はなるべく避けるようにしましょう。
さて、今週最後のネタ紹介をしたいと思います。
今回のネタはこちら!
『ティーカップに皿がつく理由』についてのネタだよ。
じっくり読んでいってね。」
一般的に紅茶を飲むためのティーカップ(teacup)にはソーサー(saucer)と呼ばれる受け皿が付属している。
かつてのソーサーは底の深い形状で、カップにソーサーが付属するのは紅茶を注いで飲むための器だったためである。
その当時は紅茶をソーサーに移して飲むのが正しい作法だったと言われている。
ヨーロッパでお茶が飲まれるようになったのは17世紀に入ってからで、1610年にオランダの貿易会社である東インド会社が日本から緑茶の輸入を開始した。
ヨーロッパで最初に飲まれるようになったお茶は日本から輸入された緑茶だった。
その後、日本が鎖国を行うと、ヨーロッパでは中国からの緑茶の輸入が主流となった。
17世紀中頃に中国で誕生した紅茶がヨーロッパへ伝わり、その味わいが西洋人の好みに合い、緑茶より人気になっていった。
貴族から庶民まで紅茶を飲むようになったが、イギリスやオランダではお茶が輸入され始めた頃にはティーポット(teapot)がまだ輸入されていなかった。
そこで、まだ取っ手のないティーカップに茶葉を直接入れ、お湯を注いで飲んだ。
しかし、この飲み方だと茶葉が口に入る場合もあり、これを防ぐ方法としてお茶をソーサーに移して飲んでいた。
また、ヨーロッパでは熱いものを飲む習慣がなかったことから冷ます目的もあったと考えられている。
18世紀になるとヨーロッパでもティーポットが作られるようになり、お茶をソーサーに移して飲む習慣はほとんどなくなった。
その後、ティーカップには取っ手がつき、現在のようなソーサーとセットになった。
ティーカップに皿がつくのはかつての習慣の名残であると言える。
「どうだったかな?
ティーカップに皿が付いているのがなぜだろーって思っていたけれども外国のかつての習慣からきていたとは驚きだったね。
17世紀や、18世紀に日本や中国からヨーロッパにお茶が伝わって、
飲まれるようになっていったことでいろいろな形に進化したけれどもかつての習慣が少し残る形で今に伝わっているのはなんだか不思議ですね。
コロナの影響でまた自粛期間がやってきます。
この機会にお茶や、コーヒーを楽しんでみるのもいいかもしれませんよ。
というところで今日のネタはここまで。
次回のネタもお楽しみに。」
「みなさんこんにちは。
今日も暑いですね。
各地でコロナウィルスと一緒に熱中症が増えています。
水分補給のほかに塩分補給も欠かさないようにしましょう。
さて、今日のネタ紹介に入りたいと思います。
今回のネタはこちら!
『マラソンでペットボトルを減らす方法』についてのネタだよ。
じっくり読んでいってね。」
ペットボトルなどのプラスチックゴミは深刻な環境汚染を引き起こし、世界的な問題となっており、その解決策が求められている。
イギリス・ロンドンで2019年4月に開催されたマラソン大会において、ペットボトルのゴミを20万本も削減したあるアイデア商品がある。
それはロンドンにあるNotpla社の食べられる液状カプセル飲料「Ooho!」である。
このロンドンマラソンは毎年、世界中から約4万人ものランナーが集まる規模の大きな大会である。
そんなマラソン大会で問題になるのが、給水所で配られる水分補給用のペットボトルで、ランナーは水を飲んだ後に道端にそのペットボトルを捨ててゴミとなる。
そのマラソン大会で配給されるペットボトルの数は92万本にも上り、資源の無駄遣いや環境への悪影響が懸念されていた。
そんな中で、ペットボトルの代わりにランナーに配られたのがカプセル飲料である。
このカプセル飲料の外側を覆うのはプニプニとした手触りの透明なソフトカプセルで、その素材は植物や海藻から抽出された成分で作られている。
そのため、中の水を飲んでこのカプセルをそのまま食べても体に害はない。
また、中の水だけ飲んでカプセルを捨てたとしても、1か月前後で自然に分解されるため、環境汚染の心配もない。
ロンドンマラソンでは普通のペットボトルとは別にこのカプセル飲料を3万個配給したことで、20万本ものペットボトルを削減することができた。
また、カプセル飲料の中に入れる液体は水に限らず、ケチャップやマヨネーズなども入れることができ、プラスチックに代わる容器の素材として期待されている。
「どうだったかな?
今では当たり前のように使われているペットボトル。
いろいろと使い勝手がいいけれどもゴミになってしまうと処理するのに手間がかかってしまう。
それが環境破壊などを生んだりしていた。
でも新たに環境にやさしくペットボトルのように使えるものが生まれた。
この製品が早く世界中に広まってペットボトル問題が解決してくれるといいですね。
というところで今日のネタはここまで。
次回のネタもお楽しみに。
それではまた。
ばいばい。」
「みなさんこんにちは。
今日も暑いですね。
台風が二つできていて週末ちょっと心配ですね。
水分補給や、塩分補給をしっかりしてねっちゅうしょうにならないように気を付けましょう。
さて、今日のネタ紹介と行きたいと思います。
今回のネタはこちら!
『「ビニール傘」誕生の歴史』についてのネタだよ。
じっくり読んでいってね。」
雨の日には欠かせない「ビニール傘」は、日本で生まれた商品であり、日本は世界で一番ビニール傘の消費量が多いとされる。
ビニール傘を最初に開発したのは、東京都台東区寿に本社を置き、雨具などの製造・販売を行うホワイトローズ株式会社である。
第二次世界大戦の後、当時の傘は綿などの布製が主流だったが、水が漏れやすく、さらに染色技術が未熟で色が落ちやすく衣服を汚すことも珍しくなかった。
そんな布製の傘の不便な点を解消した素材がビニールで、進駐軍が使用していたテーブルクロスに目をつけ、布製の傘に被せる「傘カバー」という商品を開発した。
この傘カバーを1953年(昭和28年)に発売するとすぐにヒット商品となった。
しかし、ナイロンやポリエステルの素材を使用した傘が登場すると、布製の傘と同様に傘カバーも売れなくなった。
そこでビニールそのもので傘を作ることを思いついた。
1958年(昭和33年)に初めてのビニール傘が完成した。
ただし、その当時のビニール傘は透明ではなく乳白色をしていた。
また、このビニール傘は布製の傘の競合品として問屋での扱いを拒まれ、売上も伸び悩んだ。
その後、1964年(昭和39年)に開催された東京オリンピックの際に転機が訪れた。
オリンピックを観るために来日していたアメリカ人の傘バイヤーがそのビニール傘に目をつけ、ニューヨークで販売したいとの話を持ちかけた。
これをきっかけとして同社で見通しの利く透明なビニールを使用した傘が開発され、その透明なビニール傘はニューヨークで飛ぶように売れた。
日本ではこれを逆輸入する形で、最先端のファッションとしてビニール傘が全国的に流行した。
当初は値段も高く高級品だったビニール傘も、海外で大量に生産されるようになり価格は下落した。
その一方で、同社は1万円を超える高級なビニール傘も製造しており、
販売価格8800円(税込)の「縁結(えんゆう)」というビニール傘は上皇后美智子が公務で使用されたことでも知られる。
「どうだったかな?
いまでは当たり前のように使われているビニール傘
最初は値段も高く日本では売れなかったというのが驚きだね。
それに作ったのが日本人だというのも驚きだったね。
さらにビニール傘が売れるきっかけが50年前の東京オリンピックだったのも驚きだね。
日本人はいろいろなものを作っていて、それを世界中で使われるようになっているというのはすごいね。
ここ最近は急なゲリラ豪雨が降るようになってきたから傘を持っていなくてもコンビニなどで安く出帰るのは素晴らしいね。
というところで今日のネタはここまで。
次回のネタもお楽しみに。
それではまた。
ばいばい。」
「みなさんこんにちは。
今日は朝方少し雨が降って少し朝が涼しかったですね。
でも各地で熱中症警報が出ているので水分補給を欠かさないようにしましょう。
さて、今日のネタ紹介に入っていきたいと思います。
今回のネタはこちら!
『世界に三色の国旗が多い理由』についてのネタだよ。
じっくり読んでいってね。」
世界に三色の国旗が多い理由
フランスやイタリア、オランダ、ドイツ、ロシア、ベルギー、ルーマニア、ハンガリー、ブルガリア、ギニアなど三色の国旗は世界的に多い。
世界で最初の三色の国旗はオランダの国旗だとされ、それは赤・白・青の三色である。
世界的に三色の国旗が多いのはそのオランダの国旗の影響だと言われており、オランダの国旗を真似て様々な三色の国旗が誕生した。
三色の国旗には16世紀にオランダがスペインに対して起こした独立戦争が関係している。
当時、無敵艦隊を率いる大国のスペインの統治下に置かれたオランダは、大きな港町を中心に商業が盛んだった。
しかし、その利益はスペインに独占されていた。
その状況を打破するために立ち上がったのが、後に「オランダ建国の父」と呼ばれるオラニエ公ウィレム1世(Willem I、1533〜1584年)である。
オランダの独立を掲げたウィレムは、自分の家紋からオレンジ・白・青の三つの色を取って三色の国旗が生まれた。
この国旗は「プリンスの旗(Prinsenvlag)」と呼ばれ、1568年のスペインに対する反乱をきっかけとするオランダ独立戦争(八十年戦争)で使用された。
それまでの国旗は複雑な紋章が描かれたデザインであり、これらの国旗は王家や軍隊しか使用することができなかった。
そんな中で、ウィレムが掲げたシンプルな三色の国旗は画期的で、オランダの人々が自由に使用することができた。
これは世界で初めての民衆のための国旗であり、その結果として民衆の独立への気運は高まった。
1581年の独立宣言から3年後、ウィレムはスペインの陰謀により暗殺されてしまうが、三色の国旗のもと民衆たちは戦い続けた。
そして、1648年のヴェストファーレン条約においてオランダの独立が承認された。
もともと大きな港を持つオランダは大航海時代に経済的に急成長し、豊かな国となった。
これは「オランダの奇跡」とも呼ばれる。
このようにしてオランダの三色の国旗は、独立と繁栄のシンボルとなったが一つ問題があった。
それは船に掲げた国旗は潮風にさらされ、強い日差しを浴び続けると、オレンジと青が色あせてしまうことだった。
1630年以降、国旗のオレンジは赤に、青はより濃い色に変更された。
この変更はオレンジは色が薄くなると海上で識別しにくかったためとも言われる。
オランダの国旗の赤は国民の勇気、白は神の永遠の祝福を願う信仰心、青は祖国への忠誠心を表す。
そして、海洋大国となったオランダにあやかって、ロシアやフランスが三色の国旗を真似した。
1705年、ロシアはオランダのような豊かな国になるように願いを込めて、オランダ国旗の順番を変えた三色の国旗を採用した。
そして、オスマン帝国に支配されていたスロベニア、クロアチア、セルビアを独立へと導くと、これらの国はロシア国旗にならって三色の国旗を作った。
一方、オランダにあやかったもう一つの国のフランスは、フランス革命中の1794年に縦縞の三色国旗に変更した。
その国旗の青は自由、白は平等、赤は友愛を表すと解される。
さらに、フランスによってオーストリア帝国から解放されたイタリアも、フランス国旗の青の部分を緑に変更した三色国旗に変更した。
こうしてオランダから始まった三色の国旗は独立と解放のシンボルとして様々な国に影響を与え、結果として世界的に三色の国旗が増えていった。
現在、世界には197ヵ国の独立国があるが、その中の55ヵ国が三色の国旗を採用している。
ちなみに、三色の国旗は「三色旗(さんしょくき)」または「トリコロール」とも呼ばれる。
トリコロールといった場合、特にフランスの国旗を指す場合が多いが、最も古い三色旗は上記のようにオランダの国旗である。
また、歴史的な経緯から三色旗は民主国家の象徴ともされる。
「どうだったかな?
今回のネタも東京オリンピック開催中で、いろいろな国の国旗を見ることが多いのでこういうネタを持ってきてみました。
このような背景があって3色になっていたのかとかちょっとした歴史を感じるネタだったね。
ほかにも世界中には国旗があるからまた面白いネタが見つかったら紹介しようかな。
というところで今日のネタはここまで。
次回のネタもお楽しみに。
それではまた。
ばいばい。」
「みなさんこんにちは。
今日も朝から暑いですね。
熱中症に気を付けながらこまめな水分補給を心掛けましょう。
さて、今日のネタを紹介したいと思います。
今回のネタはこちら!
『野球の始球式で空振りする理由』についてのネタだよ。
じっくり読んでいってね。」
野球において試合の開始前には「始球式(しきゅうしき)」と呼ばれる来賓が投手役として投球を行うセレモニーが実施される。
その始球式では打者はどんなボール球や絶好球が来ても空振りをするのが慣例となっている。
これは日本で最初に始球式を実施した際に、投球を行った政治家・教育者の大隈重信(おおくま しげのぶ、
1838〜1922年)が偉すぎて、打者が空振りをするしかなかったという逸話に由来する説がある。
記録に残っている最古の始球式は、1892年(明治25年)にアメリカで実施されたウェスタンリーグの開幕試合だったとされる。
この時、当時のオハイオ州知事で後の第25代アメリカ大統領のウィリアム・マッキンリー(William McKinley、1843〜1901年)は客席からグラウンドにボールを投げ入れた。
当時のアメリカでの始球式は現在の日本での始球式とはスタイルが異なり、客席からグラウンドに向かってボールを投げ入れるかたちで、打者もいなかった。
始球式での空振りは日本で生まれたとされ、それが早稲田大学の創設者でもある大隈重信が行った始球式である。
1901年(明治34年)に創部された早稲田大学野球部はアメリカ遠征の中で「始球式」というものを知り、日本でも行われた。
1908年(明治41年)11月22日、来日したアメリカの大リーグ選抜チームと早稲田大学野球部が対戦する際に、記念として日本初の始球式を実施することになった。
その始球式でマウンドから投球を行った大隈重信の球はストライクゾーンを大きく外れてしまった。
その際、早稲田大学の1番打者・山脇正治(やまわき まさはる、1885〜1959年)が大隈大先生の球をボールにしてはいけないと考え、わざと空振りをしてストライクにした。
これ以降、始球式において打者は投手役に敬意を表すために、どんな球でも空振りをするようになったと言われている。
「どうだったかな?
ここ最近は芸能人などいろいろな人が始球式に参加することが多くなって始球式を見る人も増えてきている気がします。
今回はそんな始球式についてのネタを紹介してみました。
もともとアメリカで始まった始球式と、日本で始まった始球式はちょっと違うのは驚きだったね。
内容も日本らしい内容だと思っちゃったね。
もう今年は見ることできないけれども今はいろいろな始球式がユーチューブなどで見ることできると思うから調べてみるといいかもね。
というところで今日のネタはここまで。
次回のネタもお楽しみに。
それではまた。
ばいばい。」
「みなさんこんにちは。
昨日から新しい月が始まりましたね。
夏本番で朝から気温が高くてついつい涼しい部屋に閉じこもりたくなりますね。
昔は朝涼しかったのにもう朝には20度超えた気温になっているので
毎年暑さが激しくなっている気がします。
こまめな水分補給を欠かさないようにしましょう。
さて、今週最初のネタ紹介に行きたいと思います。
今日のネタはこちら!
『「位置について 用意」は山田さんが決めた』についてのネタだよ。
じっくり読んでいってね。」
「位置について よーい ドン」は、陸上競技などのスタート合図として誰もが慣れ親しんでいる言葉である。
この合図を決めた人がいる。
「位置について 用意」が使われるまでのスタートの掛け声は、方言も含めてバラバラだった。
例えば、1883年(明治16年)の開成学校の運動会では「いいか ひい ふう みい」の掛け声で傘を振り下ろす合図だった。
しかし、タイミングが合わせづらいということで浸透しなかった。
1913年(大正2年)の第1回日本陸上競技選手権大会では「支度して 用意 ドン」の合図だった。
この他にも「腰を上げて 待てぇ ドン」や「がってん承知 ドン」「おんちゃなケツ上げぇ ドン」などがあったという。
しかし、どれもいまいちだということで、日本陸上競技連盟は1927年(昭和2年)にスタート合図を一般公募した。
驚くことに当時、英語の「On your marks, Set」のスタート合図も使われていて、この英語に代わる日本語の合図を求めて募集がされた。
そして、これにより山田さんの「位置について 用意」が選定された。
「位置について 用意」の合図を考えたのは、東京・神田に住んでいた山田秀夫さん(当時19歳)だった。
この新しい用語は、1928年(昭和3年)3月4日の東京日日新聞で発表された。
ところが、当時の新聞には秀夫さんではなく、山田敏夫さんの名前で掲載された。
これはスタート合図の応募は1人につき1つと決められていたためである。
スタート合図の案を2つ応募したかった秀夫さんは、弟の敏夫さんの名前を使って、2人の名前でそれぞれ1つずつ応募した。
その結果、弟の敏夫さんの名前で応募した「位置について 用意」が採用され、新聞にも敏夫さんの名前が掲載された。
秀夫さん本人の名前で応募したのは「位置につけ 用意」だったという。
現在では、世界陸上競技選手権大会やオリンピックなどの国際競技会において、スタート合図は英語に統一されており、
すでに上にも記載した「On your marks(位置について), Set(用意)」が使われている。
「どうだったかな?
まさか昭和に入ってから応募して選ばれたものだったとは意外だったね。
それ以前は地方によって言い方が違っていたのはなんだかおもしろいね。
!
今は公式の場では日本でも英語の言い方が使われているけど、せっかく決まった言葉もつかわれなくなっていってしまうのかな?!
というところで今日のネタはここまで。
次回のネタもお楽しみに。
それではまた。
ばいばい。」